幼少期のパチンコ通い
僕の生まれは福岡県八女市。母の実家のある町でした。ほどなくして大阪に引っ越し、9歳まで枚方市で育ちました。
両親は仕事から帰るとパチンコ屋に通い詰める毎日。一人っ子の僕は、両親にパチンコに連れて行かれ終わるまで駐車場で一人遊びをしながら待っていたり、家でひとりぼっちで両親の帰りを待つのが嫌で、夜遅くにパチンコ屋さんに迎えに行っていたのです。5~6歳の頃でした。日が暮れてから友達と遊ぶわけもなく、暗い夜道を歩き、怖さと不安でどうしようもありませんでした。実はこのころのトラウマから、今でも真っ暗な中で一人寝ることが怖いのです。
パチンコから帰ってきた両親は、負けたらものすごく不機嫌。仕事はサラリーマンだったのですが、父も母も僕に話してくる話はお金の話。幼いながら僕は「なぜせっかく稼いだお金をわざわざパチンコで減らすんだろう。そんなに不機嫌になるならやらなきゃいいのに。」と冷静に考えていたのです。今思えば夫婦の給料はどちらが高いとかパチンコで勝った負けたとか、お金の勝ち負けに異常にこだわっていました。そんな二人の間で、僕のおかしな勝ち負け根性は自然と身について(?)いったのですね。
中学生になると福岡県糸島市に引っ越し、プロレスオタクだった僕はいじめの標的になり、休み時間に暴力を受けたりしてかなりつらい日々でした。でも一番辛かったのは、いじめに対して責任を感じた音楽の先生が「守れなくってごめんね」という手紙を残して辞職されたこと。「僕のせいで辞めた。僕が辞めさせてしまったんだ」と思うと本当に悲しくて、「僕なんか生きてる価値がない」って思ってました。今思えば自己否定の渦にのまれていましたね。
高校に入っても人生は好転せず、人間関係をうまく築けない僕は、孤立して仲間外れにあったり、好きな女の子にも話しかけられなかったり。友達の輪のなかで僕が発言すると、それまで笑っていたのにピタッと止まったり、理解してもらえなかったり。これが自分でパニックになるほど怖くて、対人恐怖症になっていました。ここからいよいよ人生をあきらめ目立たない生き方を選んでいましたね。唯一救われたのは尾崎豊の曲だったなあ。
20歳になった時、世界旅行をしようと思いたちました。バイトで100万円貯めて、いよいよ陸路でユーラシア大陸へ。色んな国を巡っているうち、目に映るものすべてが新鮮。人々の価値観も違う。豊かな国もあれば物乞いするのが当り前な地域も。何が幸せなのか疑問を持ち始めたものの、初めて「人生っておもしろい!」と思い始めました。それまでは「人生なんてつまらない。死んだ方がマシ」などとつぶやいていたわけですから、大きな転換点でした。
zeroとの出会い
世界旅行から帰ると、「対人恐怖症を乗り越えるために営業のプロになろう!そしてお金を稼いだら幸せになれるはず」と思い込んでいた僕は、保険会社の営業でスキルを身につけます。しかし、スキルを身につけ、お金を稼いでも病気になったりひとりぼっちだった上司を見て、何か違うと感じ始めます。
その頃SNSで、とある社長さんと出会いました。飲食でニューヨーク出店を目指していた社長さん。面白い人だな、と思った僕は実際にその方と会い、2回目に会ったときに「サクは親友だから」と言われてベタボレです。その社長さんからNCGzeroの母体となるNCG(ナガイコミュニケーショングクループ)の勉強会に誘われ、もちろん通い始めました。社長さんのもとで働いていた藤川真一(良妻賢母のアンパンマン社長)さんとの出会いもこの頃。藤川さんのもとで僕は働くことになりましたが、厳しい仕事に耐えられず、数か月で逃げ出したんですけどね。だけど、そんな逃げた僕を責めることなく、むしろずっと優しくしてくれた藤川さん。そのうち僕はプライベートなことも相談するようになり、後に恩人といえば藤川さんと答える程の尊敬する方となりました。
zeroに入ろうと思ったきっかけ
飲食業から逃げ出して別の仕事をし出し、7年後、藤川さんと久々に会った時のこと。藤川さんはびっくりするほど進化されてキラキラ、イキイキと輝いていました。こんなに人間ってかわれるんだと感動。だったら僕も変われるかもしれない・・・!
そう思い、NCGzero主催のイベントに通い始めました。朝ごはん会に通い詰め、今まで人と話ができなかったのにまさかの会話が楽しくなるなんて。なんでも話すことが大事だ!と目覚めたのです。8か月ほどたったころ、zeroに入らない?声をかけられて、うれしくてすぐにメンバーになりました。
zeroに入って変わったこと
今までは対人恐怖症だったので、人と一緒に何かするなんて恐ろしかった人生。だけどzeroメンバーになってからは、仲間といろんなことがやってみたい!という風にガラリと考えが変わったのです。そこからはビッグイベントで3回連続責任者の立場をとったりと積極的に動きましたね。クリスマストレインというイベントのときは「これが成功したら世界が平和になる!」と真剣に思っていました。なんでも極端な思考グセはこんなところにも片鱗をみせていますね(笑)
ただ、トントン拍子にはうまくいきませんでした。やっぱり幼少の頃の勝ち負け根性が邪魔をして、仕事やzero活動でいろんなひととぶつかり、せっかくイベントの責任者になれたのにクビになったこともあります。「どうせ自分のことなんて誰もわかってくれないんだ」と自己否定してあきらめていた頃、zeroメンバーの関原くみこ(シザーマウスくみこ)さんから「あんたのことが分からん自分が悔しい!」と泣かれたことがあります。衝撃的でした。こんなにも僕のことを理解しようとしてくれる人がいたなんて。
そこから僕は「分かってもらえるよう努力しよう」と自分を変えていきました。そしたら、ケンカばかりしていた仲間とも話して仲良くなれたり、絆が深まっていくことを体感。今では率先して意見を言ったりするくらい、話すことが好きになりました。
ニックネームのワケ
僕のニックネームは、「残念なナルシスト櫻井」。自己否定が強くて自分に価値がないと思っているし、自分なんか愛されないと思っている。そんな内面に対して、僕が唯一肯定したのが外見。昔から外見は褒めてもらえたのでそこだけは自信があったのです。周りから言われる言葉は、「しゃべらなかったらイケメンなのにね。」です。だから残念なナルシストなんです。皆と違った角度から意見を言ったりする僕は、やっぱり理解しにくいみたいです。
今後の目標
そんな僕が、つい最近、長年背負ってきた勝ち負け根性を終えることに目覚めました。
今年の5月に開催したzeroのビッグイベント「しゃべくりフェスタ」(2018.5.5)で三匹の子豚をzero風にアレンジ。色んな個性があって色んな生き方をしている子豚たちを見て、「欠点があってもいいんだ!むしろ欠点がすばらしい!」と気付いたんです。そのとたんに無意識にやっていた人への勝ち負けが止まりました。僕は常に人より劣っている、負けていると思っていたから、僕より勝っている周りの人に嫉妬心を抱いていたんです。だけど自分の欠点を認めてすばらしいと思い始めると、嫉妬なんか感じなくなったんですね。
ただそこには新たな問題が。人に意識を向けていたことを辞めると、自然と自分に意識が向き始めるのですが、忘れていた幼少期のさびしさがぶわーっと溢れ出てきたのです。
得も言われぬ寂しさ。夜一人だったときの怖さ。親に愛されなかったこと。これらが一気に体調不良となって現れたのです。
寝られないほどの腰痛にはじまり、頭痛、足の痛みで歩けないくらい。最後にはとうとう顔面麻痺になってしまったのです。今も治療中なのですが、これは幼少期の愛情不足が関わっているかもしれないね、と仲間から言われました。
そういえば母親から「信一郎は我慢強い子ね」と言われて育ち、ほんとは甘えたかった心を隠し、しょうがないとごまかして生きてきたのです。本心を言えないので体調の悪さで自分をアピールしていたのかもしれません。
だけどみんなの愛ある言葉のおかげで、治るのに数カ月かかるところを数週間でほとんど顔面麻痺が分からないぐらい回復しました。
顔面麻痺が治る頃にはきっと僕にとって新しい世界が光となって見えてくると思っています。今後は自分の営業スキルや物怖じしない性格を活かし、人生のパートナーの仕事を営業で取っていきたいですね。
そして対人恐怖症から脱して話すことが好きになった僕が、ダイアローグ(対話)がいかに大事かを少しでも多くの人に伝えていきたいと思っています。