三宅佑佳ヒストリー

【コンプレックスたくさん。無口ちゃんの学生期】


私は、2つ下の妹と2人姉妹。
小さい頃を思い出してみると、妹は目がクリッとしていて服もピンクや赤と可愛い女の子っぽくて、比べて自分は青や緑など
どちらかというと、可愛らしい格好は似合わない・・・、無意識に小さい頃からそう思っていました。
一重の目も、それも二重の妹と比べてコンプレックスに思っていましたね。羨ましさがあって、家族の集合写真なんかも撮るのが嫌でした。今でも鮮明に覚えていますが、3,4歳のころ妹はお母さんと一緒に寝て、私はお母さんのパジャマを抱いて寝て、素直に甘えられずにいましたね。
それぐらい、お母さんのことが大好きででも、妹に取られた気持ちでいたのでしょう。

妹はとっても素直でお母さんとも喧嘩をするぐらいはっきり自分の気持ちを泣いてでも表現したりして、私も同じようなことをお母さんにすると
お母さんが大変だからと子供ながらに考えたのでしょう、自分は反抗期がなかったと思います。
どこかやはり、妹と比べては妹に対して「みんなに愛されていていいな」って思いがありながら、
自分は何もできないし「無条件では愛されない」と思っていました。

小学校5年生の時になぜかクラスメイトの男の子に「ふんどしみーこちゃん」とあだ名をつけられて、当時の自分は
いじめられているのかと思い、言われても相手にせず全く友達とも喋らなくなりました。今思えば、男の子が
ただ女の子をからかうのと同じでしょうね。無視し続けた私も自分ですごいなと思いますが、ついに「無口さん」と呼ばれるようになりました。笑
小学時代は、好きな習い事を自由にやらせてもらっている妹を横目に、私は塾に通ったりして
本当は遊びに行きたかったりして、こっそり親の財布からお金を抜き取ったりしたこともありました。
反抗期はなかったと思いながら、これは相当反抗していますね。

一向に面白くない勉強で、中学受験も受けましたが不合格がわかった新幹線での帰り道。
「美人は得だけど、あなたは美人じゃないから勉強を頑張りなさい」と母に言われ、車窓に映った自分の顔を見ながら、自分は可愛いほうじゃないと思ってはいたものの、母の期待にも答えられない自分は美人じゃないからと、もう終わりなのかなと絶望を感じました。
共学の中学校に進学しても、男の子と話すことは皆無。無口ちゃんは無口のまま、女の子とばっかり話し、高校では歌って踊る、合唱部に入ってとにかく楽しかったんですね、毎日部活に明け暮れていました。
大学に入るとアルバイト、サークル、遊びと友達はハマっているのに、自分は何一つ面白くない。
当時から気づいてはいたものの友達がいなくて寂しさを感じ始めていたのは二十歳前後のころでした。

【社会で学んで1度目の転機】

社会人になって、関東の大学病院の事務で片道一時間半、往復三時間かけて6年間勤めましたが、
自宅、会社の往復でしかない毎日。

いよいよ本格的にうんざりし始めたのは働き出して3年目のとき、こんな私に電流が走ります。
4年目の時に、異動してきた上司との出会いがありました。
態度もでかいし、最初の第一印象はどちらかというと最悪。苦手だなと思い毎日隣に居て仕事をする上司。
チャラいのか、なんなのか私の苦手意識とは裏腹に上司はいろんな言葉で私を力づけようとしてくれていたのでしょうか、
「君がいないと困るんだ」とか平気で言うし、不思議でならないのですが気づけば上司の魅力にハマっていたんですね。
特に関係は深まることはなくただ食事に行くことはありましたが、相手は家族もあるひと。

その上司はある日異動が決まり、あんなに「君が居ないと困る!」と言っていたのに
出世するのは男性だけかと、ひねくれてしまって。上司の異動の話をきき、素直に受け止めることができなかった私は
男性に対する僻みの気持ちや見捨てられたという気持ち、自分の女性としての自信も勝手にどん底へと落ちていきました。
その話が出てから生理痛がひどくなり、職場の看護師さんに検診を進められて検査をしてみたところ子宮頸がんがみつかりました。27歳のときでした。
病気の症状はそこまでひどくはなかったものの、退職したあと2週間ほど入院しました。その時期には周りの友達が結婚・妊娠ラッシュといいますか、ますます自分の惨めさや人の幸せを喜べない自分に自己嫌悪がMAXになりました。
放射線治療と一部切除で治療は終わりましたが、今思うととことん、自分の女性性を大事にせず完全に諦めて閉じていたんだと思います。

そんな感情のまま仕事にも打ち込むことができず、会社の周りの人とも話せなくなっていき、このままじゃダメになる!と思い、退職を決意。
当時、福岡に両親が住んで居たのでいっとき自分の休養も含めて関東を離れ、福岡へ引っ越しました。
福岡にきて半年間はその彼と連絡をとって関係を断ち切らず、ズルズルと連絡を取り合っていました。
いい加減にしようと思い、連絡してこないでくださいと相手に伝えて彼との関係は完了りました。

【zeroを知るきっかけ】


福岡に住んで、間も無く仕事を始めたのはいいものの、やっぱりつまらない、職場の人しか知り得ない。
もともと無口さんのクセもあって、すごく臆病な自分は変わりありませんでした。
母が6.7年間、吉冨美鈴さんのヨガクラスに通っていたこともあり、美鈴さんの声かけもあって母経由でzeroのイベントを知りました。
2017年の5月初めて参加したのは落語スタイルというビックイベントでしたね。
落語スタイルでは、みんなちんどんやみたいな格好をしていて「大人になってこんな格好するの、恥ずかしくないのかな」と正直思ったりして、
ショックをうけながらもめちゃくちゃ楽しそうなZEROメンバーをみて、羨ましいなとおもいました。
中でも印象的だったのは、初めてのペアトークで正文さんと会話したこと。
その時正文さんが話してくれた過去のシェアをありのままはなしてくれて、初めて出会ってそんなことを話してくれてすごいなあと感じていました。
ゼロのイベントに参加するようになってメンバーのみんなはもちろん、こんなに話していいんだということを知って、大人になっても友達ができるんだという感動がありました。
まさか友達が誰一人いない福岡で、こんな自分のために親身になって話を聞いてくれたり
アドバイスしてくれて、びっくりするぐらい向き合ってくれる、この人間関係のみんなに惚れていました。

ある日、ナガイの対話力のプログラムに参加して、みんなの前で過去の病気のことを話し、
そこで「あの時の病気は自分で創った」という事実に直面しました。
その時、アドバイスをくれたトップガイドの松本さんに愛からいただいたメッセージに、目覚めさせてもらった感覚と衝撃がありました。
そこから、自己探求の日々、自分が生まれ育った環境や自分の会話のクセ、生き方のクセをよく見るようになりました。

【zeroメンバーになるきっかけ】


私の場合zeroメンバーもそうですが、まずでんぐりのみんなと働きたいと思ったのがきっかけです。仕事のやりがいを求めていたのでしょう。
チーム一一員として自分も働く、結果を出すということにチャレンジしようと、仲間たちが働くでんぐりあんのお弁当やで働き始めました。

福津に引っ越してきて、ビックイベントの準備や仕事の合間を塗ってゼロ活動しているメンバーたちを間近にみて、すごいなーと感心するばかり。
自分は自分の仕事しか頭になくて余裕もありませんでしたが、マネージしたり、イベントを盛り上げるために
ゲストに喜んでもらうために必死にやってるゼロメンバーの姿にやはりどこか憧れていたのでしょう。
いつも対話のパートナーとしてガイドしてくださる関原さんに「私もゼロメンバーになりたい」と話しました。

【zeroメンバーになって】

ゼロに入って、1ヶ月が過ぎました。
ゼロにはいってすぐ、イベント主催の責任者をさせてもらって、始めて参加してくれたゲストが
「楽しかった」と言ってくれたり楽しんでくれた姿をみて大変なこともあるけど、やってよかった、もっと人と出会っていきたいなと、
喜びをたくさん感じるようにました。
ちょっと昔までは、何事も自分ひとりでやることが当たり前と思っていて、自分一人でやることにこだわっていたけど、
チームや仲間とコミットを立て、目標達成することにやりがいを感じます。
でもこのことを成し遂げるには、仲間との会話が必須、なんでも話す、「話さなきゃ始まらない」が根本だとつくづく思いますね。

【今後の目標と夢】

今後の目標。おおきな目標ですが、イベントではなくて、家族みたいにご飯を食べたり、
お風呂に入ったり、たわいもなく話すゆっくり語り合うスペース、最近でいう
民泊、対話ができるひとが集まる宿泊施設をつくりたいなと、漠然と夢を抱いています。
今は、お弁当やで働いているので料理の腕もあげつつ、将来はその民泊でケータリングをとったり、
吉冨美鈴さんのヨガセッションや、木塚さんのゼロファームとも連携して、体験型の民泊をやってみたいです。
まずは、言葉してみるってやっぱり大切ですね!こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします♪